CRC日本公式見解&提言

(1)東日本大震災と福島原発人災に際してのアピール
子どもの権利条約の原点を踏まえた 新たな社会の創造を!
3月11日の東日本大震災と福島原発人災で、3万人におよぶ方々が亡くなられたり、行方不明になられ、また何十万人もの方々が被災されました。心からご冥福をお祈りし、お見舞い申しあげます。

今回の非常事態を通して、なんて多くの子どもたちが、言いも言われぬ恐怖を体験し、命を落とし、身近な人を失い、不自由な避難生活を強いられていることでしょう!

『生きていてくれたんだね! ありがとう!』
『怖かったね! もう大丈夫だよ!』
『がんばらなくたって、良い子でなくたって、勉強なんかできなくたっていいよ!』
『ずっと一緒に生きていこうね!』

子どもが、今、真に必要としているのは、「この人となら生きられるんだ、生きて良いんだ」という自己肯定感と「人は信頼できるんだ、この人もわたし/僕を必要としているんだ」という共感能力を生み出してくれる、特定の人との「受容的・応答的な人間関係」です。この「受容的・応答的な人間関係」を紡ぐことこそ幸せに生きることであり、子どもの権利条約の原点です。災害と人災によってそれを奪われた今だからこそ、私たちは、その大切さが身にしみます。

ひるがえって考えてみると、今回の大災害と人災がなくても、実は日本の多くの子どもたちは、日常レベルですでに非常事態に陥っていたのではないでしょうか。身近なおとなとの「受容的・応答的な人間関係」が保障されないために、孤独と絶望の中で“競争”に駆り立てられ、演技をし、ついには“問題行動”に追いやられる等、「子ども期」が奪われています。だから、国連は、日本の子どもの多くが、「親や教師との関係性の貧困のゆえに今を幸せに生きられない」権利侵害状況にあると認定しました(2010年6月に国連「子どもの権利委員会」から出された第3回最終所見§50、§60参照)。
「がんばろう日本」という合い言葉のもと、日常への復帰と復興が急がれています。しかし、「子ども期」を奪い、人災を引き起こした日常や社会へと戻って何の意味があるのでしょう。今こそ、競争と評価と効率を最優先する社会から、子どももおとなも、“人間らしく”生きられる「受容的・応答的な人間関係」を紡げる社会へと転換するときです。
まずその第一歩として非常事態の中で恐怖と孤独に震えている子どもたちが、安心と自信を取り戻し、思いや願いを自由に生きられるようになるまで、じっくりとその存在と痛みを抱えてあげられるような救済を実践しましょう。そして、子どもの権利条約の原点を踏まえた社会を構築するために英知を出し合い、子どもとともに歩み出しましょう!

(2)いじめ、体罰に関するアピール( 2013年3月15日)     要旨

いじめ、体罰、虐待の問題が毎日のように、メディアを賑わし、さまざまな意見や対策が語られている。しかし、そこで語られている見解の多くは、単なる対症療法であったり、その場しのぎの弥縫策、あるいは政治的な喧伝でしかない。
なぜなら、いじめ、体罰、虐待といった“暴力による子ども支配”は、戦後ずっと日本社会に根を下ろしてきた「経済的に豊なら幸せなはずだ」「成果を出し、競争に打ち勝つことこそすべてだ」といった価値観(文化目標)とそれを達成するために政治的・社会的にがっちりと形成された「支配管理・選別・序列」体制(社会構造)の所産そのものだからである。どんなに意識の表層面で「暴力はいけません」と子どもや親や教師の意識を変革しようとしても、その意識を形成している日本社会の根本的な価値観や体制を抜本的に変えない限り、いじめ、体罰、虐待の問題を解決することはできない。
本来、養育や教育とは、国や社会やおとなの都合のいいように子どもを「育て上げる」ことではない。子どもの権利条約29条が明言しているように、子どもの秘めている一人ひとりの能力が最大限に「育ち、開花する」のを援助することである。これを達成するために、暴力や外部からの規律・指導による強制は無用であるどころか、内に秘めている発達の芽をつぶし、「自分らしく生き、他人のことも考えられるような人間」へと発達することを阻害してしまう。だから、子どもの権利条約は、発達の芽である愛着行動ないしは本能的な欲求を表明する力そのものを“意見(欲求)表明権”として承認し、身近なおとなに“それに対して受容的に応答する義務”を課すことによって、言い換えると、子ども自身の“受容的応答的な人間関係をつくる権利”を通して、子どもが尊厳をもって自律的・創造的・道徳的な人間へと発達することを保障したのである。
DCI日本は、上述のような子どもの権利条約の視点から、これまでの日本の社会文化構造を根本から問い直し、変革することによってしか、子どもに対する暴力支配を廃絶することはできないと確信し、すべての関係者に対して以下のことを提唱する:
① 日本のこれまでの子育て・教育目標およびそれを達成するためのシステムを、子ども  の権利条約の視点にたって、根本から問い直し、変革すること
② 子どもの欲求表明権の行使にきちんと対応できるよう、親や教師をはじめ子どもの成  長発達に身近に関わるおとなに、経済的・精神的・物理的余裕と自由を保障すること

本文

1)体制に組み込まれた暴力による子ども支配(=指導)
今、日本社会では、大津いじめ死事件や桜宮高校体罰死事件をはじめ、地下のマグマが爆発するように、いじめ、体罰、虐待問題が噴出している。しかし、“暴力による子ども支配”は、実は、今に始まったことではない。戦後、経済発展を最優先するために形成してきた日本社会の文化と構造そのものが“暴力による子ども支配”を「指導」や「しつけ」という名で、内在化しているのである。それは、子どもの個性と成長発達をつぶし、国や社会、そしてその代弁者としての親や教師が、自分たちの期待する成果目標に向けて、子どもを鋳型にはめこむための道具であり、装置だったのである。

2)今取られている対策は真逆である
それにもかかわらず、マスコミや政治家は、なぜ“暴力による子ども支配”が噴出するかについての根本原因をきちんと検証しようとしないどころか、①単なる弥縫策として、学校現場と教育委員会の機能不全に求めたり、②いじめ死や体罰死への緊急対応という反論の余地のない子どもの生命の安全確保を口実に、実は政治主導による中央省庁や地方自治体首長の、また警察の教育現場への直接介入を強化しようとしている。③あるいは、子どもの怠け心を諫めたり、規範意識を醸成するためには、愛の鞭という体罰が必要だという主張も政治家や評論家によって繰り返されている。④さらに安倍首相にいたっては“心のノート”を使った道徳教育を強化することによって解決できるとうそぶいている。
しかし、これでは、いじめや体罰問題の真の原因を隠蔽するに過ぎず、しかも、当該問題を解決するどころかより増加させる真逆の対応でしかない。なぜなら、体制の中に深く組み込まれた日本社会の子育てや教育の価値観(日本社会の文化目標)とそれを達成するために形成された構造とシステムそのものが“暴力による子ども支配”を生み出しているのであり、それらを抜本的に変革しない限り、解決できない問題だからである。

3)本来の子育て・教育とは?
子どもが「育ち」、「発達する」とは、教育(education)ということばが「引き出す」という意味のラテン語“educere”を語源とし、また同じく発達(developmnent)が「包みを開ける」という意味のラテン語“de+volvere”を語源としているように、子ども一人ひとりの内に秘めている能力や力を外に引き出すことである。子どもの権利条約29条(a)も、そのことを確認している。このように、子どもの育ちとか発達は、子どもの持っている人としての、あるいは人間としての自然(本能)の力が自ら伸び、開花することである。養育や教育は、この自ら伸び、開花しようとする子どもの主体的な力を信じ、それに手を貸すことしかできないはずである。
「指導」や「体罰」による強制は、子どもの育ち・発達に不可欠な内に秘めている力を潰し、国や社会、その代弁者である親や教師が一定の目標や成果を達成するために権威と権力を用いて子どもを支配・選別する装置であり、合法的な社会システムを通して、日本の社会文化構造の中に深く組み込まれている。

4)日本の社会文化構造のなかで「子ども期を奪われている」子どもたち
日本の子どもたちは、国策としての新自由主義的な子育て・教育体制の中に投げ込まれ、国や学校によって設定された目標に向けて市場原理で競わされ、成果に応じて評価・分配・序列化されている。家庭においても、学校においても、子どもは、人間としてもっている自然の欲求(本能的な生命力)をそのままでいいよといって受け入れ、それに応えてくれるような人間関係を奪われてしまっている。学校も、家庭も、人としての個人の尊厳を自ら確立し、他者のそれを尊重できるような人間へと成長するために不可欠な、一人ひとりの子どもの欲求の充足に代えて、「これがあなたのためよ」という名の下で、社会の要請する画一的な価値観を押しつけ、子ども期を支配管理している。その結果、子どもたちは、自分を放棄し、意見表明しない人間になり、そして周りの画一的な価値観によって自己を律することこそ、日本社会の最高の価値であり、自己保全の一番の近道であると考えるような人間に「育て上げられている」。
この過程で多くの子どもが耐えられなくなって脱落し、鬱的になったり、嗜癖に走ったり、あるいは孤独と絶望の中でいじめに走ったり、自己破壊へと追い込まれている。他方、無難に育て上げられた子どもも、せいぜい組織や時の権力・権威に従順な利己的なおとなになるのが関の山で、新たな未来を開く“自律的、創造的、道徳的”な人間からはほど遠いおとなになっている。

5)「日本の教育体制を全面的に変革せよ」と迫る国連の勧告
このように子ども期を剥奪している子育て・教育体制に対しては、国連「子どもの権利委員会」が子どもの権利条約の視点から頓(とみ)に日本政府に対してその変革を勧告し続けている。「日本の高度に競争的な教育制度そのものが子どもたちに過度のストレスを醸成し、子どもたちの発達のゆがみを生み出している」としてその抜本的な変革を求め(1998年の初回勧告22、43)、2010年にはさらに一歩進めて「親や教師との関係性が貧困であるために子どもたちは今を幸せに生きられていない」(勧告50、60)とし、小中高のみならず高等教育を含む日本の教育制度全体に対して「知的な人材教育に偏重するのではなく、子どもが人間として成長発達できるような制度へとバランスを回復せよ」(勧告70、71)と迫っている。

6)子ども期を保障するためには「受容的応答的」な人間観関係が不可欠
子どもが自分の尊厳を確保し、今を楽しく豊に過ごし、その結果自分らしく(自律的・創造的に)生き、他人(ひと)のことも考えられるような(道徳的な)人間へと発達するためには、親や教師といった身近なおとなに無条件で愛され、抱えてもらわなければならない。なぜなら、子どもは、自らの生存を確保し、孤独と絶望の不安から逃れるための本能的な愛着欲求を、親・教師と言った身近なおとなに無条件で受容してもらえない限り、自律の基礎となる自己肯定感(「生きていていいんだ」という安心感と自信)と道徳の基礎となる共感能力(「他人って信じていいんだ」という基本的信頼と「他人(ひと)のことを思いやることのできる」補償感情)を絶対に醸成することができないからである。子どもが本能的に有している愛着欲求という生命力が自己肯定感と共感能力へと開花することを援助することこそ養育と教育の原点なのである。これは、決して、外部からの暴力や指導や規律によって達成できるものではない。この理は、現代の愛着心理学や大脳生理学によって学問的にも明らかにされており、また子どもの権利条約は、これを受けて、「幸福と愛情と理解のある環境の保障」こそ子どもの成長発達のための不可欠の大前提だとしている(前文参照)。
子どもの権利条約のすごさは、ただ単に上のような子ども期の理念を宣言したのみならず、子どもが自らの尊厳と成長と発達を、自らの力で実現するために、「受容的応答的な人間観関係をつくる権利」を保障したという点にある。条約12条は、通常、意見表明権と呼ばれているが、その神髄は、子どもの発する愛着行動(「ねぇ~、ねぇ~」という呼びかける力)を権利として承認し、身近なおとながそれに対して受容的に応答する(「な~に、そうだったんだ」と顔を向ける)義務を規定したものである。この子どもの欲求表明権こそ子どもの権利の中核なのである。

7)子どもに対する暴力支配をなくすために、子どもの権利の実践を!
すでに述べたところからも明らかなように、いじめ、体罰、虐待の根本原因は、「親や教師が、日常レベルで、自分の子ども・自分の生徒の尊厳と成長発達を確保するために、一人一人の子どもと真摯に向き合えていない」という点にある。従って、いじめ、体罰、虐待をなくし、また生じた問題を解決するための唯一かつ根本的な対応策は、「親や教師が、一人一人の子どもと真摯に向き合い、受容的に応答できるような環境と体制を保障し、再構築すること」に尽きる。
これを子どもの権利(条約)の視点から言い直すと、上に述べた子どもの中核的な権利である欲求表明権を実践することである。子どもの欲求表明権を保障するための義務として、親・教師は、家庭でも学校でも、日常レベルで一人一人の子どもの愛着欲求に「受容的応答的に対応」しなければならないのである。国策や財政的理由にかこつけて、あるいは親や教師の期待や世界観でこれを否定することは、子どもの中核的な権利を無視することになる。子どもの権利の保障主体としての親や教師(その他子どもの成長発達に直接関わるおとな)が、子どもの権利行使である愛着行動をきちんと受けとめることができるように、日本社会の子育て・教育目標とそれを達成するための手段(体制)を抜本的に見直すことが、子どものみならずおとなの幸せを実現し、日本社会を発展させるために、今こそ焦眉の急として求められている。
いじめ、体罰、虐待といった子どもに対する暴力支配をなくすために、DCI日本は、政府・地方自治体・教育委員会、そしてすべての関係者に対して以下のことを要請する:

① 日本のこれまでの子育て・教育目標およびそれを達成するためのシステ ムを、子どもの権利条約の視点にたって、根本から問い直し、変革すること
② 子どもの欲求表明権の行使にきちんと対応できるよう、親や教師をはじ め子どもの成長発達に身近に関わるおとなに、経済的・精神的・物理的余裕と自由を保障すること